小説 多田先生反省記
8.夏の燗酒
蝉の声も鎮まった9月になろうとする頃に私は三度(みたび)福岡の地を踏んだ。学会に託けて東京に出掛けてからというもの、その都度、福岡へは「戻って来た」のかそれとも「行った」のかと考えているのだが、今もってその分別は曖昧なままである。しかし、兎にも角にも新しい下宿へと足を踏み入れたのは間違いない。部屋に放り込んだままにしてあった少しばかりの家具と本棚を思わく通りの場所に納めたところで、電熱器と片手鍋そしてラーメンを啜るどんぶりを買ってきた。この下宿でも朝と晩の賄いは供されるのだが、日曜日などの昼時にインスタントラーメンを拵(こしら)えようという心づもりである。神崎はまだ郷里に身を置いているようだ。徐(おもむろ)に机に向かってドイツ語の本を開いてみたのだが、やたら暑くて勉強する気にもなれない。退屈なので小母さんに声をかけてから、玄関横の部屋にある電話を借りて大野に帰着を知らせた。私の声を聞くや大野はすぐさま遣って来た。小母さんとは既に顔馴染みである。右と左に並ぶそれぞれ二つの部屋を仕切る廊下を真っ直ぐ進んで、私の部屋の真下にあたる居間に突き当たった所を右に折れて、階段を踏んでくる大野の足音が聞こえる。やあ、やあと招き入れた。言わずもがな、きちんと一升瓶をぶら下げている。ちゃぶ台はないからお盆を直(じか)に畳において差し向かいとなった。お盆の上に湯呑はあるが、すぐにお酒の栓を抜くようなことはしない。
「昔、芸者が冷酒(ひやざけ)を呑もうとしてね…」
「はあ、どうしました?」
「お母さん、置屋の女将さんだね、これが」
「そう云うようですね、あの世界では」
「そのお母さんが云うには『冷で呑むんだったら私を殺してからお呑み!』って云ったんだってさ」
「冷酒ってそんなに忌み嫌われているんでしょうか?」
「冷と親の意見は後から効いてくるって言うぜ。俺、学生時分に芸者を相手に呑んだことがあるのさ」
「豪勢なお身分だったんですね」
「いや、そんなんじゃなくて、知り合いの人がね、お得意さんの接待の序でに俺も連れてってくれただけなんだけど…」
「その芸者さんから聞いたんですか、今の話」
「いや、そうじゃない。酒は燗、肴は気取りで、酌は髱(たぼ)ってな…」
「何ですか、そのタボって?」
「若い女のことよ」
「どげな字、書くとですか?」
「髪の毛の『髪』の上半分に『包む』みたいなのをくっ付けた字。…シラウオ5本並べたみてぇな手でもってさ、一杯いかが?なんて云われてみろ。ふらふらって一杯、余計に呑もうってことになっちまわぁな。お前の手見せてごらん。随分でけぇな。野球のグローブみてぇな手だな。こんなんじゃなくてさ…」
「何だか落語みたいですね」
「あたりき、しゃりき、車シきよ。寄席で聞いたんだ」
「先生って、シとヒが入れ替わりますね」
「そう?」
「関西ではパッチ云いよりますけど、東京では?」
「ももしき!」
「ほら、『ひ』が『し』になりよる。それやったら、百人一首の『ももしきや古き軒端の…』の百敷になってまいまんがな」
「ももしきや〜、古き破けてしっちゃぶけて、けふの寒さに…って云ってたぜ」
「ンなアホな!」
「いや、ホンマ!」
「西は『にヒ』って聞こえますし、東はどうしても『シがヒ』と云わはりますよ。寄席のせいかな?」
「小っちゃい頃からお江戸は下町で暮らしてたからね。どうしてもそうなるみたい。普段は成るべく気を付けてるんだけど、どうかするとべらんめ口調になるしな、どうも。その前は田舎で育ってたんでお袋の実家に行くとズーズー弁になったりして…」
「バイリンガルですな。ドイツ語もお出来になるからトリリンガルかな?」
「ドイツ語は御出来なんて大それたもんじゃなくて、瘡蓋(かさぶた)みてぇなもんよ」
「どないしても落語ですわ」
「でも日本語は、そう、ある意味じゃ二言語併用だね」
「今度は塩釜の酒井さんのとこにも行かはりました?」
「君もバイリンガルだね。うん、寄ってきた。初めてね。雅敏の兄貴たちはみんなよく似てる。ほぼ、おんなじ顔してたよ、中学生の妹もいるけど…」
「雅敏さんのお家ってご商売なされてるんでしたっけ?」
「そうなんだな。遠洋漁業なんかの漁船に積む雑貨やら何やら扱っていてね」
「お父さんがなさってらしゃぁとですか?」
「おじはとっくに死んじゃってね、今年で17回忌だった」
「そうでしたか。それで、今はどなたが?」
「次男が後を継いでてね」
「長男じゃなくて、次男の方がお継ぎになられたとですか?珍しかですね」
「うん、長男はお医者さん。暫くの間はおばが何とか遣り繰りしてたんだけどさ、どうにもおばの仕切りじゃ左団扇(うちわ)で暮らせなくなったらしくてね。ゆくゆくは弁護士になろうって法学部で勉強してた次男が大学を終わったところで、司法試験の方は諦めて塩釜に戻って商売を継いだんだって」
「なるほど…」法曹界を目指す大野は心中穏やかではではない。
「諦める気持ちのこと、テイネンって云うよな。ず〜っと、あれはタイネンの江戸訛りかなって思っていたんだけどさ、そうじゃないんだね」
「先生って、今日はどこまでも落語の世界ですね」
「おばは函館生まれの鎌倉育ちなんだよね。おじは東京の大手の会社に勤めてたんだけど、喧嘩して辞めちゃってさ、そいで塩釜に行ったんだ。だからなのかな?おばは未だに関東のコトバ」
「バイリンガルにはなっとらんとですか?」
「うん。コトバばっかりじゃなくて、鎌倉のお姫様がそのまま年を食ったみたいな感じでね。さっき云った通り、長男はね、岩手の大学の医学部を卒業して医者になったんだけど、今は東北大の医学部にいる。糖尿病が専門なんだ。本当は皮膚科をやりたかったらしいんだけどね、おばから『医者になるんだったら、せめて聴診器を首にぶら下げてないと医者らしく見えない』って云われて内科にしたんだってさ」
「面白いひとですね、雅敏さんのお母さんって」
「法事の時もさ、お坊さんに『暑くて仕方ありませんし、他にはこの通り若い人たちばっかりですから、お経の方はどうぞ有難いところを掻い摘んでお願いします』って頼んでたよ」
「塩釜ってあの松島湾の近くですよね」
「そう。あの西行法師がそこから眺めた何とも言えない絶景に見とれてさ…」
「松尾芭蕉の歌でも有名ですもんね」
「そう、西行さんもね、一端は帰りかけたんだけど、もう一度そこから松島を眺めに戻って来たって云われている『西行戻しの松』っていう小高い場所があってね。おばがそこまでタクシーで案内してくれたんだ。そこからの見晴しったら凄いよ。それこそ帰りかけた西行さんじゃなくたって、そこからもう一回見たくなるね。松が植わっている小っちゃい島が湾の中に幾つもふわふわって浮かんでるのさ」
案内してくれたおばの言葉通りに説明したのだが、どうやらおばはこの「戻しの松」に引っ掛かって勝手に解釈をしていたようだった。後から知ったのだが、本当のところは、西行法師が諸国を行脚(あんぎゃ)していた折に、その松の下で一人の子どもに禅問答を投げかけられた揚句、その童に問答で敗けてしまい、そこから先、松島へ脚を伸ばすのを諦めたとの伝えのある因縁の場所だった。従って「松島の余り有る美しさが西行を今一度そこに戻した」のではなく、頓挫した西行を「そこまで踏んできた道へと戻した松」というのが本筋なのだが、大野は勿来関(なこそのせき)よりも遥か彼方のみちのく、松島での西行法師のこの口碑には疎(うと)いようで、ただ感心して聞いていた。この辺りで私たちはぶらぶらと出かけた。置屋の女将のことばに倣おうと、猪口と徳利を買うためである。大野が訪ねてきた時には大人しかった外の玄関脇に繋がれていた白犬がけたたましく吼えかかってきたので私たちはたじろいだ。
「先生、グラスも買いましょう」
考えてみれば湯飲みはあるがコップらしき物は水差しの蓋がわりのグラスが一つあるだけだった。魚屋を覗いたら目玉がきらきらと輝いている魚がある。「伊佐木」という名の魚だった。刺身に捌いてもらって、今一度、先ほどの雑貨屋に行って皿も買い揃えた。なぜか缶切りが目に入ったのでそれも買い求めた。醤油も忘れてはならない。お膳立てが一通り揃ったところで電熱器の登場だ。久々の再会を祝して暑い最中(さなか)にちびちびと燗酒を酌み交わした。西新の下宿では襖一つ隔てて婆さんが寝起きしていたし、不肖の先生は稀に素面(しらふ)で床に就いたりすれば、夜中になって「ああ、眠られん!」と起き出して、スイスキーをラッパ飲みしていた。移り住んだ下宿では私の部屋は2階にあるので誰にも頓着する必用もなければ、おまけに窓が二つもあって実に明るく快適である。神崎の部屋は階段を上り切った所を右手に折れた畳一枚ほどの廊下の横にある。窓は北側にしか無いようだ。私の部屋には西と南に向いた窓が二つあり、吹き抜ける微かな潮風が心地好い。食事は時分時になれば小母さんが「ご飯ができよりましたよ!」と声をかけてから階段の上り口に置いてくれたので、そのおかずを肴に気兼ねなくお酒を呑んだ。大野は白いご飯が好物だと云って小さなお櫃(ひつ)の飯をよそってむしゃむしゃと食べている。夜の帳(とばり)が下りる頃合が幾分早まったような気もするが、辺りが闇に包まれる前に一升壜は底を叩(はた)いた。真面(まとも)に西日を受けながら呑む燗酒に私たちは汗だくになっていた。それでお酒はよすことにして、大野にビールを買いに走らせた。このとき缶切りが目に入ったので何かしら缶詰も買ってくるように申し渡した。酒屋はすぐ近くにあることは先刻承知である。出掛けに大森は平らげたお膳を下に運んでくれた。
「どうせだから、この大きいビールにしました」大瓶が三本ほども入りそうな大きなビール壜をひっさげてきた。
「俺の田舎ではこのでかい壜は随分前からあったけど、東京では見かけたことないな」
「福岡でも最近のごとありますよ」
きりりと冷えたビールは喉ばかりか胃からお腹辺りまで潤してくれたような気がした。
「先生、今まで申し上げておらんかったですが、僕には彼女のいるとです」
「そうか、うちの学生?」
「いや、年上です。先生と同じ猪年です。高校の時に知り合ったとです。高校の図書館の司書ばしよります」
「そうなの。随分長い付き合いなんだね。名前は?」
「たみえ、云いよります。字はですね、民主主義のタミ、民百姓のタミの方がいいかな。それと江戸のエで民江です」
「一度紹介しろよ」
「いや、駄目ですよ。別の女の子連れてきますけん」
「なんだ、その別の女の子ってのは」
「いや、民江はですね、ヨカおなごですたい。ほんなごつヨカ〜。僕、少し酔ぉてきたるごつあります。先生、何か変なこと考えよるでしょう」
「いや、何も考えていない。酒を呑む、呑めば酔う。酔わずして何の己が桜かな。関係ねぇか?」
温(ぬる)くなる気遣いもいらぬほどの間に大きなビール瓶も空になって、ふらふらとした足取りで玄関を出ていった大野はまたもや玄関脇の犬に吼えられて帰っていった。